yoralyの日記 from UK

【現在はnoteに引っ越しました】日本で生まれ育ち、高校生でアメリカ留学を経た現イギリス大学生がいろいろ発信します。

【1】死は人を生かす

みなさんこんにちは。yoralyです。

前回が自己紹介だったので、今回から本格的に普段自分が考えること、行動していることについて書いていきます。(なのでバイアスがかかります。ご了承ください)

 

自己紹介の記事です。気が向いたら読んでほしいです。↓ 

yoraly.hatenablog.com

 

死の自覚

 

本題にはいりましょう。

 

皆さんはどんなときに死を意識しますか。

 

そしてどんなときに生を意識しますか。

 

自分の周りの人が亡くなったとき、赤ちゃんが生まれたとき、

何かに絶望したとき、何かに感動したとき。

そういう思い出を回想しているとき。

 

一人一人に違う場面が浮かぶと思います。

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グランドキャニオンに行った時の写真。雄大さに息をのみ感嘆しました。

 

おらは小学生のときにかくかくしかじかで上り棒のてっぺんから落ちそうになって、でも何とか左足を棒に巻き付けることで落ちずに済んだことがあります。当時は焦りすぎて危なかったとしか思いませんでしたが、今思い返すと頭から落ちてたら死んでいたかも、と思ったりします。

 

我々は生の中に生きている、つまり死んでいない。死んでもないのになぜこうも死を意識するのでしょうか。

 

一般的な意見かもしれませんが、それは「死が、私たちに唯一予測しうる、生者の向かう先」だからです。

 

生とし生けるものはみないずれ死ぬ、みたいな言葉は映画やゲームでよく耳にしますが、要するに人間は自分たちが生きていることを認識しているから、自分たちが最終的に死ぬことも知っている。魂が輪廻転生するにしても天国に行くにしても肉体的な死は免れられない。死は生とセットになっている。だから自らの生を自覚する人間は、もう片方の死の存在を意識せざるを得ないのでしょう。

 

 

まだ死なずとも、死ぬ気で精一杯生を生きる

 

上記の内容を踏まえたうえで今回お伝えしたいのは、死を意識することで生への活力を得られるということです。

 

簡単に言えば、死を意識することで自分や他者がまだ生きていることを実感し、死ぬまでの残り時間をより有効に、意味のあることに費やそうとする、ということです。

 

これはドイツの哲学者ハイデガーが言っていることの受け売りに近いのですが、要約すると彼は「人は自分が”死への存在である”という事実に向き合って初めて無意味な暇つぶしや気晴らしをやめ、本来の自分らしい生き方ができる」と主張しています。ただし「死ぬのは知ってるけどまだまだ先だし大丈夫」と考えているのは死と向き合っているとは言えません。

 

自分の死を意識せずに行っている何気ないこと(ゲームとかネットサーフィンとか)は、おそらくあなたが本当にやりたいことではないでしょう。

 

例えば自分があと三年で死ぬと医師に宣告されたら、どんなことを成し遂げたいか。そこで思い浮かぶことが、本来のあなたが本当にやりたいこと。そのやりたいことを日々の生活の中で少しずつでもやっていければ、日常はさらに充実するはずです。

 

そして死ぬのは自分だけにあらず。周りの人もしかりです。そこでさらに覚えておきたいのは、他人と関われるのに残された時間。

 

例えばおらは家族の誰かが出掛けるときは、必ず行ってらっしゃいを言います。できるときはちょっと外までお見送りします。それは、

 

彼らにまた会えるかがわからないから

 

です。お出掛け中に交通事故にあって帰らぬ人になるかもしれない。家族という当たり前の存在でも必ず生きて再会できる保証はないという危機感と不安から、私は毎回心を込めてして見送りをしています。そうすればたとえ家族の誰かが本当に帰らぬ人になっても、最後まで大切な人を大切にすることができたと思えるし、亡くなった家族も多少はおらの最後の見送りを嬉しく思ってくれると思うからです。(当然亡くなればめちゃくちゃ悲しみますが。)そして逆に私が見送られるときは、「必ずまた会えるように死なないように気を付けよう」と心に誓います。

 

おらの例は多少やりすぎかもしれませんが、家族や親戚、友人など大切な人がいつ失われてもおかしくない、と気づけばその人たちと遊んだり会話をできることがより貴重で大事なものに感じられるはずです。そうすれば自然と大切な人を思いやったり一緒にいる時間を思いっきり楽しむことができるのではないでしょうか。

 

まとめ

死への自覚は人を本来的に生かす

 

 

コロナウイルスで近頃家にずっといて飽きてきた、そんな方がいたら、自分がもうすぐ死ぬとしたら何をしたいか考えてみると、日々の飽きを吹き飛ばすものに出会えるかもしれませんよ。

 

補足

おらは死は悪いものとか嫌なものではないと思ってます。(経験したことのない現象を頭ごなしに否定するべきではないという多分ソクラテスの考えにのっとっています)

でも死んでしまったら、生きている人ともう関われない(幽霊になれるならば別だが)ということは事実なので、生きている時間、大切な人と関われる時間を有意義に過ごすべきだと考えています。

編集後記

おらはまだ自分の死に対して向き合い切れていません。向き合えていたらゲームを毎日勤しむことはないし、もっと積極的に課外活動を行えている気がします。それでもブログを書いたり日記をつけたり、木工作品を自由に作ったり、自分のやりたいことを実行できている部分もあります。「生」活を充実させることで少しずつでも死というきたるべき事実に向き合っていきたいです。

この記事は、そんな「死に向き合いきれてない人間」が書いてますので、いまいち説得力に欠けるかもしれません。

 

あと第一回から抽象的な内容を選んで伝えたいことの整理もつかない状態で書き始めたから首尾一貫ではないかも。難しいです。

 

この記事を通して少しでも読者の皆様が自分の日常を見直し、本来の自分がやりたいことを達成するために行動できることを願っております。

 

また一週間以内にお会いしましょう。

 

今後ともご自愛ください。

 

どうもありがとうございました。

 

 

 

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